「旭川歴史市民劇」解説 トピック② Vol.8

2020年公演予定の歴史市民劇「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」の解説編。
今回も、劇中に登場したり、触れられたりする出来事、トピックについての解説です。

<糸屋銀行倒産と十勝岳噴火>

大正15(1926)年5月24日、旭川および上川地方は、地元銀行の経営破たんと火山噴火という2重のショックに見舞われる.
このうち経営破たんしたのは、旭川に本店を持ち、道北地方を中心に店舗を拡大していた糸屋<いとや>銀行。もともとは明治24(1891)年に兵庫県で創業した銀行だが、10年後、開拓景気に沸く北海道に注目して旭川に支店を開設。さらに本店を旭川に移し、営業範囲は、上川、留萌、宗谷、空知の各地方に広がっていた。 
しかし1920年代に入ると、第一世界大戦の大戦景気の反動で不況が深刻化。糸屋銀行も一気に不良債権が増えて経営を圧迫、この日、営業を停止して事実上の経営破たんに陥った。

一方、上川の美瑛町、上富良野町、十勝の新得町にまたがる十勝岳は、この日の正午すぎと午後4時すぎに相次いで爆発的な噴火を起こす。
噴火は山頂付近にあった残雪を溶かして大規模な泥流となって麓を襲い、死者・行方不明者144名、建物の被害372棟という未曽有の大災害となった。
これら被災地の主力金融機関は糸屋銀行であり、住民は家屋や耕作地に加え、金融資産までも失う事態に直面した。

旭川の糸谷銀行本店(大正4年・旭川市街の今昔 街は生きている)

糸屋銀行の経営破綻を伝える旭川新聞の記事

<若山牧水の来旭と旭川歌話会>

「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅行く」の名歌で知られる歌人、若山牧水<わかやま・ぼくすい>が旭川を訪れたのは、1926(大正15)年10月のこと。歌人としても知られ、当時、第七師団参謀長として旭川に赴任していた齋藤瀏を頼っての訪問だった。牧水は、妻、喜志子<きしこ>とともに参謀長官舎に4泊し、市内で講演会を開いたり、色紙や短冊に揮毫して売ったりして過ごした。
この頃すでに牧水の名は全国に知られていた。到着の翌日には、常磐公園の上川神社頓宮を会場に歓迎歌会も開かれている。
参加したのは、瀏を始め、旭川の短歌界の重鎮である酒井廣治<さかい・ひろじ>、当時は旭川新聞にいた小熊秀雄や同僚の小林昴<こばやし・こう=すばるとも>ら約70人。これらの人々は、この牧水の来訪などをきっかけに、翌月結成された短歌の研究会「旭川歌話会」の主要メンバーとなった。
なおこの牧水の旭川訪問で、両親とともに夫妻をもてなしたのが、当時17歳だったのちの歌人、齋藤史だった。
齋藤家の人々とすっかり打ち解けた牧水は、感性の鋭さを感じさせる史に歌を詠むことを勧め、史はその言葉をきっかけに本格的に短歌の創作の道に入る。後年、史は繰り返し書いている。
「『君が歌をつくらないのはいかんよ』(中略)あのときの牧水の言葉がなかったら私は歌をやっていたかどうか。」

若山牧水

牧水夫妻と齋藤一家(大正15年)

<二・二六事件と旭川>

二・二六事件は、1936(昭和11)年2月26日に起きた陸軍青年将校らによるクーデター未遂事件。
事件をきっかけに、軍部の政治的発言力が強まった。
旭川は陸軍第七師団が駐屯する「軍都」であったことから、ゆかりのある多くの人が事件に関わっている。
このうち決起部隊側では、中心だった青年将校の中に、旭川生まれの村中孝次<むらなか・たかじ>(事件は免官後の発生)、ともに父親が第七師団の配属経験のある将校で、幼い頃、北鎮小学校で学んだ栗原安秀<くりはら・やすひで>と坂井直<さかい・なおし>がいる。
その栗原、坂井と幼馴染だったのが歌人の齋藤史<さいとう・ふみ>。2度に渡り幹部将校として旭川に勤務した史の父、瀏<りゅう>は、栗原らを支援したとして、禁固刑に処された。
一方、青年将校に襲撃された重臣や軍幹部のうち、陸軍教育総監だった渡辺錠太郎<わたなべ・じょうたろう>は、事件の7年前まで第七師団の師団長を務めていた。渡辺が師団長だった当時、参謀長だったのが齋藤瀏である。年月を経て2人は襲撃する側とされる側に分かれた。
なお渡辺は私邸を決起軍に襲われて殺害されたが、当時同じ部屋にいたのが次女で9歳だった和子だった。和子は渡辺が師団長だった時に旭川で生まれており、その後、18歳でカトリックの洗礼を受けてシスターとなり、長く岡山県のノートルダム清心学園に勤めた。多数の著書があり、平成24(2012)年の「置かれた場所で咲きなさい」は200万部を超えるベストセラーとなった。平成28(2016)年、89歳で死去。

栗原安秀

渡辺錠太郎一家(左端が和子)

<美術研究会「赤耀社」(せきようしゃ)>

1923(大正12)年、高橋北修が画家仲間の関兵衛<せき・ひょうえ>、坂野孝治(孝児とも)<さかの・こうじ>と作った組織で、のちに小熊秀雄も加わった。グループ展を開くとともに、同年11月には北海ホテルを会場に美術講演会も開催している。
またその翌月には、旭川では初めての女性モデルを起用したヌードデッサン会を始めている。参加者からは1か月2円の会費を取ったという。小熊秀雄の小説「裸婦」はこのデッサン会の模様をもとに書かれている。 

高橋北修

<木彫り熊>

北海道の熊の木彫りは、1923(大正12)年、道南の八雲町にあった旧尾張藩藩士らが入植して作った農場、徳川農場の農民たちが、尾張徳川家19代当主の徳川義親<とくがわ・よしちか>がスイスから持ち帰った木彫り熊を手本に作り始めたのが始まりとされる。
旭川では、1926(大正15)年に、近文コタンに住む熊撃ちの名人、松井梅太郎<まつい・うめたろう>が木彫り熊の製作を始め、やがて仲間の多くも熊彫りを手掛けるようになった。その後、旭川ゆかりの彫刻家、加藤顕清<かとう・けんせい>の指導を受けたこともあって彫りの技術は徐々に高まり、土産品として店頭に並び始めた。
松井梅太郎は、このようにアイヌ民族による木彫り熊の先駆者であるとともに、名工としても知られており、1963(昭和38)年には、嵐山公園にその功績を讃えた顕彰碑が建てられた。
この戯曲では、架空の人物として、アイヌの少年、トージ=松井東二が登場するが、彼は松井梅太郎をモデルとしている。
木彫りの熊を制作するところ、コタンの仲間とともに楽隊を組んでいるところは同じだが、年齢は梅太郎が1901(明治34)年生まれであるのに対し、トージは1910(明治43)年生まれに設定してあり、9歳の差がある。

松井梅太郎顕彰碑

<嵐山>

「旭川八景」のひとつにも数えられている市郊外の景勝地。
展望台からは、大小の川が流れる肥沃な上川盆地と、川の源に当たる大雪の山々を一望することができる。
ただ展望台や北方野草園を含む現在の嵐山公園が整備されたのは、1965(昭和40)年のこと。
なので、脚本にあるように、一般の人が気軽に登って景観を楽しめたかは分からない。
隣接する近文山<ちかぶみやま>には、1885(明治18)年、上川開拓に功績のあった岩村通俊<いわむら・みちとし>(初代北海道庁長官)や永山武四郎<ながやま・たけしろう>(初代第七師団長・2代目北海道庁長官)らが、山頂から国見(上川盆地を一望したことを表す)をしたことを記念する石碑が建てられている。

嵐山


近文山の石碑

<「パリジャンクラブ」>
  

カフェー・ヤマニの2代目店長、速田弘<はやた・ひろし>が1933(昭和8)年に開店した飲食店。純喫茶、レストラン、カフェー、バーを合わせたような新しいコンセプトの店。3〜4条の仲通り7丁目にあった。
設計は、速田と親交のあった名建築家、田上義也(たのうえ・よしや)が手掛け、正面左手にガラス張りのらせん階段、その上に装飾塔が付くという斬新な建物だった。
翌年、速田はヤマニを閉店して新店舗「パリジャンクラブ」にすべてをかけるが、時代は戦時色が次第に強まってきており、経営は低迷。
まもなく多額の負債を抱えて速田が自殺を企てたことから(命は取り留める)、店舗は人手に渡り、間もなく閉店した。

パリジャンクラブ(昭和8年・旭川市街の今昔 街は生きている)

<知里幸恵(ちり・ゆきえ)と
「アイヌ神謡集」>

知里幸恵は、1903(明治36)年、登別生まれのアイヌ民族の女性。6歳の時に旭川の近文コタンに住んでいた祖母と叔母に預けられ、尋常小学校から旭川区立女子職業学校に進む。1918(大正7)年、アイヌ語研究のためコタンを訪れた東京の言語学者、金田一京助(きんだいち・きょうすけ)と出会い、祖母や叔母らが伝承していたアイヌ民族の叙事詩、カムイユカラの日本語訳を始める。
1922(大正11)年5月、幸恵は、金田一の勧めで上京し、のちに「アイヌ神謡集」となる原稿を書き上げるが、持病の心臓病が悪化し、9月、出版の直前で急逝してしまう。
幸恵の遺稿は、翌年、金田一によって刊行された。
アイヌ神謡集は、アイヌ語の原文(原音)をローマ字で表記、さらにその日本語訳を併記しており、文字のないアイヌ語による文学をアイヌ民族自身が初めて紹介した画期的な業績と評価されている。

「アイヌ神謡集」

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