「旭川歴史市民劇」解説 トピック➀ Vol.7

2020年公演予定の歴史市民劇「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」の解説編。
今回は、劇中に登場したり、触れられたりする出来事、トピックについての解説です。

<師団通>

開村当時は近文街道、常盤道路などと呼ばれ、村はずれの田舎道に過ぎなかった現在の平和通。その道路が師団道路と呼ばれ始めたのは、今の場所に旭川駅が設けられ、メインストリートとなった明治31(1898)年以降から。その後、大正末期からは師団通とも呼ばれ始めた。
今回、舞台で描いた時代の直前まで、通りを走っていたのが馬鉄=馬車鉄道。陸軍第七師団の旭川移駐に伴って運行が始まり、最盛期には客車20台、貨車4台、馬38頭、御者17人の体制で運行された。当時の1日平均の利用者は1200人に上ったという。

馬鉄が通る師団通 明治44年・旭川市中央図書館蔵

一方、大正から戦後にかけての通りのシンボルだったのは、駅前の通りの入り口に狛犬のように並んでいた2つの旅館。7丁目の洋館風の三浦屋と、8丁目の城郭風(和風)の宮越屋だった。

三浦屋と宮越屋が建つ駅前 大正末期・絵葉書

このほか、大正末~昭和初期の師団通には、スズラン型の街灯が飾られるなか、今のショッピングセンターに当たる「勧工場<かんこうば>」や、「神田館」などの活動写真館、丸井今井百貨店や旭ビルディング百貨店といったビルが建ち並んでいた。
東京銀座を散策する「銀ブラ」にちなんで、師団通をブラブラ=「団ブラ」という言葉もこの頃使われていた。

大正後期の師団通・旭川市中央図書館蔵

<第一神田館と火災>

第一神田館と師団通 大正9年・絵葉書

第一神田館は、「神田館の大将」と呼ばれた実業家、佐藤市太郎<さとう・いちたろう>が、1911(明治44)年、旭川のメインストリート、4条師団通8丁目に開館した活動写真館(映画館)。
常設の施設としては、函館の錦輝館<きんきかん>に次ぐ北海道では2館目の活動写真館だった。1917(大正6)年の改築後は、一部5階建ての威容を誇った。

第一神田館と師団通 大正中〜末期・絵葉書

この師団通のシンボル的な建物が炎に包まれたのは、1925(大正14)年6月10日の正午前。3階の映写室から出た火が瞬く間に広がって、白亜の建物は塔部分から焼け落ちて全焼してしまう。
次回の上映作の試写をしていた際、フィルムに火が着いたのが原因とされる。舞台のオープニングは、この時のイメージで描かれている。当時のフィルムは極めて燃えやすく、旭川では1920(大正9)年にも同じ佐藤が経営する第三神田館が火事になっている。

炎上する第一神田館 大正14年・目で見る旭川の歩み

<旭ビルディング>

かつて4条通7丁目の師団通(現在の平和通買物公園)にあった石造りのビル。
戯曲の第1幕ACT2に描かれた美術展の会場でもある。

旭ビルデング 大正13〜14年頃・絵葉書

この場所にビルが建設されたのは1922(大正11)年11月。
同じく1条通7丁目にあった丸井今井呉服店旭川支店が、改築して旭川初のビル、丸井今井百貨店旭川支店に生まれ変わった1か月あとのことだった。
このためビルとしては旭川で2番目となったが、高さでは丸井今井が一部3階建て、旭ビルディングが4階建てと、こちらの方が高かった。

旭ビルデングから見た旭川市外 昭和5年・宗谷線全通記念写真帖

開業当時は「二番館」という名称だったが、その後経営者が変わって「旭ビルディング百貨店」、さらに「三好屋呉服店」と変遷。
その後も数度改築され、経営者も変わったが、いずれも定着しなかった。
郷土史家の渡辺義雄<わたなべ・よしお>氏は、著書の中で、「このように移り変わりの激しいビルは旭川でも珍しい」と書いている。

建設中の旭ビルディング(画面左側)大正10年頃・絵葉書

<旭川美術協会作品展と〝犬事件〟>

「旭川美術協会」は、画家、高橋北修らが結成した「ヌタップカムシュッペ画会」が発展解消して1923(大正12)年に結成された組織。芝居の第1幕ACT2の舞台になっている作品展は、協会が翌年10月、同じく北修らが作った美術研究会「赤耀社<せきようしゃ>」と合同で開いた美術展をモデルにしている。

旭ビルディングと師団通 昭和3年・旭川写真帳

会場は、この年4条通7丁目に新装開店したばかりの「旭ビルディング百貨店」。当時の旭川ではもっとも高い4階建ての建物で、大勢の市民が眺望を目当てに詰めかけた。ところが屋上に上るには10銭の入場料を払って美術展の会場を通らなければならず、北修らにとっては予想外の収益となったはずである。

小熊の作品「土と草に憂鬱を感じたり」 大正13年

また舞台では、小熊秀雄の出展作品が会場に紛れ込んだ野良犬に齧られるという意外な展開が描かれているが、これも歴史的事実。小熊の作品は「土と草に憂鬱を感じたり」と題した奇抜な油絵+コラージュで、絵の中央に本物の鮭の切身が貼りつけてあったため、こうした〝珍事件〟が起きたという。

〝事件〟を伝える旭川新聞の記事

なお美術展については、会場で撮影された参加メンバーの写真が残されている。後列、左端の洋装の男が北修、一人置いた和装の男が小熊である。当時、北修は26歳、小熊は23歳だった。

美術展会場での記念写真 大正13年

<北修の震災避難記>

この戯曲の主要人物の一人、高橋北修は、実際に旭川で活動した画家だが、青年期に2度立て続けに九死に一生を得る体験をしている。それは大正12(1923)年9月、北修24歳の時。東京で絵の修業をしていた北修は、隅田川に近い向島寺島町<むこうじまてらしまちょう>の借家で関東大震災の激しい揺れに見舞われる。同居していた画家仲間とともに慌てて外に飛び出すと同時に建物が倒壊したという。

関東大震災で被害を受けた東京 大正12年

この頃、北修は脚気を患っていたため、故郷旭川に戻る決意を固め、列車に飛び乗る。
しかし仙台の手前、白石という駅で、思いがけぬ災難に遭う。
長髪で着の身着のままの北修を、東京から逃れてきた朝鮮人と疑った群衆に取り囲まれ、袋叩きに遭う寸前に追い込まれたのである。

20代の北修・旭川新聞

実は当時、被災地では、混乱に乗じて朝鮮人が暴動を起こしているといった流言飛語が飛び交い、それがもとで多くの朝鮮人が殺される事件が起きていた。そうしたデマは、被災地の外にも広がっており、北修が何度「自分は日本人だ」と訴えても疑いは晴れず、群衆は「殺してしまえ」とエスカレートするばかり。
結局、連行された警察署で持っていた日記帳を見せ、旭川を出てからのことを説明すると、ぴったり記載と符合していたため、なんとか窮地を脱することに成功した。
なお北修が日本人と分かると、地元の人たちは態度を一変させ、医者を呼んだり、食べ物や土産をくれたりと、いたせりつくせりの対応をしてくれたという。

北修の避難記が載った旭川新聞 大正12年

<ヤマニと旭川のカフェー事情>

郷土史家、渡辺義雄<わたなべ・よしお>氏の著作によると、旭川のカフェー第一号は、1919(大正8)年に3条通7丁目に開店した「カフェー・ライオン」である。
次いで1923(大正12)年、明治時代に創業した4条通8丁目の食堂「ヤマニ」が改装してカフェーとしての営業を開始。
この芝居では、この「ヤマニ」が主な舞台となっている。
さらに翌年には、「ヤマニ」と並んで当時の旭川の文化人が集ったカフェー「ユニオン・パーラー」が3条通8丁目に開店、いずれも人気を呼んだ。

カフェーヤマニ 昭和4年・絵葉書


画像17 

ただ旭川のカフェーが最盛期に入るのは1930(昭和5)年頃からで、安価でスピーディーなサービスが受けて店が乱立し、ピーク時には70~80軒ものカフェーが師団通や錦座(3条通15丁目)界隈、中島遊郭界隈で営業していたという。

ユニオンパーラー 昭和4年・旭川新聞

当時のカフェーの代名詞となったのは、和服にエプロン姿の女給さんである。
旭川ゆかりの小説家、木野工<きの・たくみ>の「旭川今昔ばなし」には、1935(昭和10)年の統計データとして、カフェーで働く女給の数325人と紹介されている。
しかしこうした盛況ぶりも昭和12~3年頃までで、次第に戦時体制が強化されて廃業する店が相次ぎ、1944(昭和19)年には一斉停止命令で姿を消した。

大正時代の旭川のカフェー・旭川市街の今昔 街は生きている

<旭粋会と黒色青年連盟>

旭粋会と黒色青年連盟は、ともに昭和初期に旭川にあった右翼と左翼の団体で、劇に登場する極粋会と黒色青年同盟のモデル。劇では、2つの団体が対立を深め、ついに今のロータリーの位置にあった常盤橋で乱闘事件を起こすが、実際の旭粋会と黒色青年連盟も、昭和2(1927)年6月24日に常盤橋上で衝突、検挙者19名を出す騒動を起こしている。

常盤橋 大正時代か・絵葉書

発端は、劇と同じく市内の飲食店で酌婦として働かされていた少女が店を逃げ出して黒色青年連盟に駆け込んだこと。これを機会に、双方は小競り合いを繰り返していた。

かつて常盤橋があったロータリー 

常盤橋では、双方が角材や鉄棒、さらには日本刀まで持ち出しての渡り合いとなったが、旭川新聞はその様子を「怒号と負傷者の悲鳴とが凄惨に闇に漏れて乱闘場が展開されたが、双方土手を這い上がって常盤橋上に現れたので黒山のような野次馬が物凄い白刃の閃めきに驚いて逃げまどい、付近は大変な騒ぎであった」と伝えている。

事件を伝える旭川新聞 大正12年

ただ双方の動きは警察も察していたようで、衝突が始まるや次々とメンバーを検挙したことから30分ほどで騒ぎは鎮まり、けが人はわずか3人におさまった。

常盤橋から見た常盤通り 大正期・旭川町勢一班

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