登場する実在の人物 Vol.5

31歳で逝ったプロレタリア詩人

今野大力

今野大力(こんの・だいりき)1904-1935

宮城県で生まれ、3歳の時に一家で旭川に移住する。
8歳から名寄、そして深川に住むが、父親が事業に失敗し、16歳の時、旭川に戻る。
郵便局の小包係となった17歳のころから詩作を始め、のちに毎日新聞の社長となる平岡敏男<ひらおか・としお>や小熊秀雄、鈴木政輝ら旭川の多士済々な詩友と交流する。  
昭和4(1929)年、2度目の上京を果たす。プロレタリア文学活動に接近し、農民闘争を支援する作品など発表するとともに、左翼系文芸誌の編集に携わった。

昭和7(1932)年、当局の弾圧を受けて検挙され、激しい拷問を受けて半年余りの療養を余儀なくされる。
作家、壺井栄<つぼい・さかえ>や宮本百合子<みやもと・ゆりこ>らの支援で一時は回復したものの、再び結核のため病床に着き、昭和10(1935)年、中野区の療養所で死去した。
享年31歳。

北海タイムス支局長として文化振興に貢献

竹内武夫

竹内武夫(たけうち・たけお)「富良野こぼれ話」

明治29(1896)室蘭生まれ。
旭川には、大正15(1926)年、北海タイムス旭川支局次長として赴任。支局長時代の昭和4(1929)年には、旭川吹奏楽連盟理事長の町井八郎とともに第1回慰霊音楽大行進の実現に尽力した。
また札幌時代に交流のあった建築家で音楽家の田上義也<たのうえ・よしや>を度々旭川に呼び、これが縁で当時、田上の設計による建物が旭川に作られた。
竹内は昭和7(1932)年から旭川市選出の道議会議員を1期務めたあと、富良野市に移住。
地域の観光振興などに尽力し、名誉市民となっている。
このほか富良野時代には、長年、国鉄富良野駅で自ら考案したまんじゅうの立ち売りを行い、「元道議さんのまんじゅう売り」として人気を集めた。

音楽でも才能を発揮した名建築家

田上義也

田上義也(たのうえ・よしや)1899-1991

栃木県生まれ。
早稲田大学付属早稲田工手学校卒業後、役所勤めを経て、帝国ホテル建設事務所に入所。
設計者である名建築家、フランク・ロイド・ライトに師事する。
またこの頃、学生時代から始めたバイオリンを本格的に習う。
大正12(1923)年、北海道に渡り、札幌を拠点に建築家、音楽家として活動を続ける。
このうち建築の分野では、独自の美意識に基づく多彩な住宅、公共施設を道内各地で設計、近代日本を代表する建築家として評価されている。
また音楽分野では、ピアノとチェロとのアンサンブル、北光トリオで活動したほか、昭和12(1937)年には札幌新交響楽団を創設し、初代指揮者を務めている。
旭川には、親交のあった北海タイムスの竹内武夫<たけうち・たけお>の招きで何度も訪問、「北光トリオ」での演奏を披露するとともに、音楽家でもあった速田弘<はやた・ひろし>経営の「カフェーヤマニ」の改装を手掛けるなど、数多くの足跡を残している。

木彫り熊も指導した彫刻界の重鎮

加藤顕清

加藤顕清(かとう・けんせい)1894-1966
(旭川90年の100人)

明治27(1894)年、岐阜県生まれ。
・ 生後間もなく北海道に移住し、上川中学で学ぶ。卒業して代用教員を務めたあと上京。
旭川ゆかりの彫刻家、中原悌二郎<なかはら・ていじろう>の作品との出会いをきっかけに彫刻の道を志す。
東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科で学んだ加藤は、帝展や文展、日展などに活発に作品を発表。戦後も日本彫塑会会長に就任するなど、日本の彫刻会を代表する存在だった。
生涯に渡って北海道、旭川とのつながりは深く、昭和初期には道庁の委嘱を受けて熊の木彫りを学ぶアイヌの若者への指導に当たっている。

華麗な交友を誇る旭川詩壇のカリスマ

鈴木政輝

鈴木政輝(すずき・まさてる)1905―1982
 

明治38(1905)年、旭川生まれ。
旧制旭川中学時代から本格的な詩作を始め、日本大学法文学部に進む。
9年間に渡った東京生活では、川端康成や堀辰雄、萩原朔太郎らと交流する一方、度々旭川に帰省し、詩誌「円筒帽」を小熊秀雄らと創刊するなど活発に活動した。
昭和9(1934)年には、旭川で詩誌「國詩評林」を創刊。
さらに2年後には「北海道詩人協会」を旭川で発会させ中心メンバーとなる。その後は、文芸活動に加え、父母から受け継いだ茶華道の教授としても活躍し、昭和26(1951)年には、旭川市文化賞を受賞している。

音楽大行進を産んだ旭川音楽界の父

町井八郎

町井八郎(まちい・はちろう)1900―1976
(旭川90年の100人)

札幌で生まれ、函館を経て、一家で旭川に移り住む。
日章小学校から上川中学に進み、上京して東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に入学する。大正8(1919)年、教員となって長野県に赴任するも1年で辞めて帰省。
大正12(1923)年、3条通8丁目に町井楽器店を開く。さらに翌年から旭川師範学校(現北海道教育大旭川校)で音楽の教官を務める一方、女学校でも教壇に立った。
昭和4(1929)年には、旭川吹奏楽連盟を結成し、理事長に就任。同じ年に北海タイムス旭川支局長だった竹内武夫<たけうち・たけお>とともに音楽行進の催しを発案、「音楽の街旭川」の代名詞となる第1回の慰霊音楽大行進が実現した。その活発な活動から「旭川音楽界の父」とされる町井だが、昭和51(1976)年、心不全により76歳で死去した。

創業期の町井楽器店(旭川市街の今昔 街は生きている)

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